久しぶりの雄山中学校卒業式祝辞(2025年3月21日掲載 )

更新日:2025年03月21日

久しぶりの雄山中学校卒業式祝辞

3月13日、雄山中学校卒業式で、2016年以来、久しぶりにステージ上で祝辞をさせていただきました。2015年以前は、告示として教育長が挨拶。次に祝辞が、PTA会長、町長、議長という順番でした。
町長の出番がなくなったきっかけは、当時、学校側から「時間の関係で、議長は遠慮してもらえないか」と打診があったからです。それでは議会軽視になると思い、辞退することにしました。もちろん、式典には他の招待者と同様に出席し、卒業生の合唱「大地讃頌」に感動し、全校生徒の校歌では自分も大きな声で参加していました。ところが、コロナ禍となり、招待もなくなりました。
昨年、ある町議から「他の町村長が地元中学卒業式に出席しているようだけど、わが町はどうなのか?」、「以前、町長が出席していてもスピーチがなかったのはなぜなのか?」という声があがりました。事情を説明すると、「議長はこれまで通り、(祝辞を)遠慮してもらうが町長はした方がよい」という意見が大勢(たいせい)を占め、これを聞いた教育長からの提案が、「今後、卒業式は町長、入学式は教育長」でした。

以下は、スピーチ用の原稿です。なお、この通りには話せてはいません。

2025年3月13日
皆さんは、小学生のとき、将来、何になりたいと思っていましたか? 僕は小学校の卒業式、みんなの前で「医者になりたい」と言いました。テレビドラマの主人公ががんで亡くなるのをみて、「自分が治す」と本気で思っていたのです。
でも、中学校に入学すると、少し、現実が見えてきました。医者になるにはお金がかかることがわかりました。最初の目標がなくなりました。

僕は小学校5年生から高校1年生までは、祖父母と暮らしていました。学校の帰りに買いものし、食事は自分で作ることもありました。
中学校の卒業式には家族は来ていませんでした。
あの頃は、政治家になろう、ましてや、町長になるなんて考えてもいませんでした。もちろん、受験勉強はしました。
高校生のときは、学校に内緒でアルバイトをしていました。

なんとか、東京の大学に入学はしましたが、アルバイトばかりしていました。就職内定先の健康診断で、胸に腫瘍が見つかり、即、入院、手術になりました。4年生の夏は県立中央病院のベッドの上です。会社の内々定が取り消され、落ち込んでいたら、選挙のアルバイトで名前を憶えてもらっていた、国会議員からお見舞いが届きました。お礼の電話をしたら、「うちに来るか」と言われました。そこから人生が変わりました。

この場に来られなかった人、どこかで聞いてほしい。

皆さんの中には「何で私だけが」と、苦しんだ3年間だった人もいると思います。「この世の中、不公平なことばかりだ」と。
確かにそうかもしれません。それでも、「世の中はこんなものだ。自分の人生はこんなもんだ。」と決めつけるのは、まだ早い。「この先、何が起きるかわからない。これからの人生、誰と出会うかわからない」、からです。

但し、そのためには、あなた方は、その時までちゃんと生きていなくてはならない。
この3年間、人間関係もうまくいかなかったとしても、この卒業式、春休みがある3月はいい機会。4月になれば、昨日までの君を知らない人と会うことになる。おめでとう。新たに始めることができる。

そして、自分がやるべきことをひたすらやる。貴方が頑張っているのならば、いつか、どこかで誰かが貴方を助けてくれる。必ず、見ていてくれる人が現れる。世の中、捨てたものじゃない。あなた方の人生はこれからだ。
卒業おめでとう。本当に困ったときには連絡ください。僕はあなたたちの応援団だ。

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