忠魂碑と平和祈念式(2025年8月8日掲載 )
忠魂碑と平和祈念式
今年は太平洋戦争が終結した年から80年ということもあり、6月頃からマスコミ等で戦争に突入した経緯や悲惨な戦い、残された方の壮絶なご苦労など、さまざまな角度から、この戦争を検証しています。また、従軍された方や遺族も減少しているため、語り継ぐことの困難さも指摘されています。
立山町では、8月5日の午前10時から立山町元気交流ステーションにおいて、県知事代理、県遺族会長、町遺族会長を招き、そのほかに町議会議員、町遺族会会員、町内小中学校の校長と児童生徒代表、町課長級職員を参列者として、立山町戦没者追悼平和祈念式を行いました。
その日の夜、町立利田公民館で開催した町政懇談会の場で「なぜ、アカリエの(敷地にある)忠魂碑の前で、7百柱(788柱。戦地で亡くなった方)のための(戦没者追悼平和祈念)式を行わなかったのか」という趣旨の質問がありました。
私の回答は以下のとおり(補足あり)です。「かつて、旧五百石小学校の敷地にあり、その後、町民会館の西隣にあった忠魂碑は大変大きなものだったが、これをおもり(管理)していた五百石地区の遺族会から、『老朽化し倒壊の危険もあるので、もう自分たちで管理できない』と町総務課に相談がありました。そこで、町遺族会にも相談し、危険防止措置として町の予算で解体しました。(なお、その際、町内各所に忠魂碑があったので、解体の希望があれば町が補助すると、お知らせをしています。当時、全国的な課題だとしてNHKでも放送されました。その後、高野小学校敷地内の忠魂碑も解体しました)
アカリエの敷地内にある碑は、町が忠魂碑を造るわけにもいかないので(政教分離)、町遺族会と相談の上、平和の碑として建立しました。(隣にある書類入れのようなものは遺族会が設置されたものです)」と。
忠魂碑をインターネットで検索すると、「忠魂碑とは、明治維新以降、日清戦争や日露戦争をはじめとする戦争や事変に出征し戦死した、地域出身の兵士の記念のために制作された記念碑。裏や下部に戦死者の氏名を刻むことが多い」と出てきました。
立山町戦没者追悼平和祈念式は、太平洋戦争に出征し戦死された方のみならず、先の大戦で犠牲になったすべての方に哀悼の誠を捧げ、二度と戦争を起こさないように努力することを誓う場としています。
参考
令和7年8月5日開催の立山町戦没者追悼平和祈念式の式辞 はこちら(PDFファイル:147.7KB)からご覧いただけます。
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更新日:2025年08月08日