2010年7月21日町長コラム
歴史を知らざるもの、政治を語る資格なし 2010年7月21日掲載
町長コラム 2010年7月分
7月11日(日曜日) 東京千代田区の市ヶ谷私学会館で「北野弘久先生を送る会」に出席してまいりました。先生は(6月17日逝去 79歳)日大名誉教授で、税法学の権威でした。
「送る会」は、普通の葬儀ではなく、献花とスピーチによるお別れの会でした。それは、「納税者運動の為の総決起大会をせよ」(送る会実行委員長 黒川日大教授)とのご遺言があったためで、「常に納税者の立場で当局に反骨を貫かれたお人柄だった」ことから、大学関係者に加え税の関係者など、多数の方が参列されていました。
実行委員長、御遺族、友人代表のあと、立山町長として挨拶させていただきましたが、先生とは一度も面識がないので、このたびのご訃報に接し、先生とわが町との関係について少し調べてみました。
ご経歴によれば、昭和30年から35年までは大蔵省。退官後、早稲田大学大学院で学ばれた後、国士舘大専任講師・上智大講師等を経て、46年から日本大学で教授になられました。関係者の話と資料によると、「黒部ダムは昭和38年に竣工されましたが、昭和31年の着工時から、黒部ダムの帰属問題がありました。映画「黒部の太陽」にも紹介されたとおり、ほとんど未開の地であったために、立山町と宇奈月町(現黒部市)の境界もはっきりしない(現在もそうですが)ところがあります。ましてや、課税相手は関西電力という大企業。また、世紀の大事業と言われた黒部ダム工事に関わる課税についてなど、さまざまな場面で、町は先生に相談していたのではないか」と。
ちなみに、昭和42年度の町予算が5億6,900万円。黒部ダム関連の税収は2億4,700万円で、町収入の約4割となっていました。
当時のことを知る町職員は誰もいません。しかし、昭和40年代の資料を開くと、先生と深いつながりがあったことが推測されます。
冨樫清二 第4代立山町長(昭和57~平成14年)は生前、
「歴史を知らざるもの、いま(未来)を語る資格なし」
と話されていました。まさしくその通りだろうと思います。
歴史を知らざるもの、政治を語る資格なし。とも言えます。7月11日は、参議院議員選挙の投票日でした。
更新日:2021年06月01日