2012年9月4日町長コラム

更新日:2021年06月01日

平成24年度立山町戦没者追悼平和祈念式式辞 2012年9月4日掲載

平成二十四年度立山町戦没者追悼平和祈念式

式辞

ここに、平成二十四年度立山町戦没者追悼平和祈念式を挙行するにあたり、謹んで追悼の辞を捧げます。

終戦の詔勅から六十七年の歳月が流れました。
「前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。」

これは、昭和天皇の玉音放送を口語訳にしたものの一部でございます。

さらに以下の通り、続きます。

「また、傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。」と。
戦争は、その交戦中もさることながら、終結後が苦しいのです。
一家の大黒柱を失ったという現実がずっと続いていきます。
悲しみに暮れる間もなく、懸命に生き抜いてこられたご遺族の皆様の戦後は、並々ならぬご苦労があったものと拝察いたします。

 詔勅の終わりには、
「もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして、互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。
ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、…」
とあります。

 本日、ご参列の皆様のうち、昭和二十年八月十五日、昭和天皇の詔勅を聴かれた方は僅かであろうと思います。
 かく言う私も、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の部分のみを覚えている程度でありました。

 このたび、改めて、詔勅を読み返しますと、三百万もの尊い犠牲によりもたらされた平和な日本ではあるけれども、はたして先人が夢描いた通りの国になり得たのかと、自問自答するのであります。

 連日、いじめに関わる事件が報道されています。大勢で一人を攻めるということが、いかに恥ずべきことかと気づかない若者がこの国にいます。
国民の生活が第一と当たり前のことを堂々と言ってのけるポピュリストがいます。
 東日本大震災が起こるまでは、温室効果ガス排出削減を声高に訴えておきながら、近頃は、化石燃料を燃やす発電については一言も触れなくなった人(元総理のことです。)がいることを、私たちは見逃してはならないのであります。

 もちろん、震災直後、被災地の皆さんの忍耐と秩序だった行動は、世界中から賞賛されました。

 同じ日本人として誇りに思い、戦後の学校では教えてくれなくても、民族のDNAに残っているのだと気付かされました。

 そして、戦後と同様、この国は必ずや復興できると、私たちに希望と勇気を与えてくれました。

 ところで、戦争の悲惨さと平和の尊さを長らく伝えてこられた遺族会の皆様も高齢化し、孫の世代にいかに継承していくべきかと苦心されておられます。

 しかし、私は、遺族会が果たしてこられた崇高な役割を、スイッチを入れれば、明かりがつくのが当たり前と思っている平和な日本で生かされてきたすべての者で引き継がなければならないと考えています。

 祖国を想い、家族を案じつつ、心ならずも戦場に散っていった尊い犠牲があったことを伝えること。
 なぜ、戦争になってしまったのかと歴史を検証すること。
 そして、平和を維持することがいかに危険かつ困難を伴う作業であるかという認識を共有することを。

 終わりになりますが、戦争の犠牲になられたすべての御霊が安らかならんことを。
そして、とこしえに世界中で争いがないように。
併せまして、ご遺族をはじめ、ご参列の皆様方のご健勝とご多幸を心からお祈り申し上げ、追悼の辞といたします。

平成二十四年八月二日

 立山町長 舟橋 貴之

この記事に関するお問い合わせ先

企画政策課 秘書政策係

郵便番号:930-0292
富山県中新川郡立山町前沢2440番地 庁舎2階

電話:076-462-9105
お問い合わせはこちらから